ヤマハの歴史

オートバイで有名

「ヤマハ」と言えばピアノ等の楽器を連想される方もたくさんいると思いますが、ご紹介する「ヤマハ」は正式名称「ヤマハ発動機株式会社」のことを指します。
ヤマハ発動機株式会社は本社が静岡県磐田市にあり、オートバイ製造が中心のメーカーです。

オートバイの売上規模は世界で2位ですが、船舶に視聴される船外機やマリンスポーツなどで使われる水上バイクなどの販売台数では世界1位となっています。
軍需生産を目的とした製造設備の平和利用をきっかけとして、日本楽器製造でオートバイの生産が始まりました。
1955年7月1日、日本楽器製造と会社分割する形で、オートバイの製造販売業としてはじまったのが「ヤマハ発動機株式会社」です。

この関係で「ヤマハ」と同様である「YAMAHA」のロゴや、音叉が3つからなる形の社章を使っていますが、どちらも細部に違いがあります。
各アルファベット文字がきれいな左右対称なのが「ヤマハ発動機」、わずかに左右非対称となっているのが「ヤマハ」となっています。

ロードレース世界選手権への参戦

1955年に日本国内で行われたレースである「富士登山レース」や「浅間火山レース」に出場し、それまでのホンダを抑えて優勝勝ち取るなど、創業時からモータースポーツに参戦し、また結果も残していました。

現在、ドゥカティ、ホンダとロードレース世界選手権でトップ争いをしています。
2004年、ホンダから移籍してきたバレンティーノ・ロッシがエースに就任し、最高峰クラスのMotoGPでは2年連続シリーズチャンピオンになりました。

また2005年はMotoGPクラスで、ライダーとして「ロッシ」、チームとして「ゴロワーズ・ヤマハ」、コンストラクターとして三冠を達成しました。
最高峰クラスのMotoGPでライダーズチャンピオンを6回も獲得しています。

四輪(F1)への挑戦

1989年(平成元年)にF1に参戦し、ザクスピードへV8エンジンのOX88を供給しました。
二人目の日本人フルタイムドライバーの鈴木亜久里と共にF1に参入しましたが、エンジンの信頼性には欠けてしまい、一時は撤退を余儀なくされました。
その後1991年に復帰しますが、1997年をもってF1からの撤退を決めています。

この間で特筆すべきは、1994年(平成6年)の日本人ドライバーの片山右京が所属するティレルに前年度のV10エンジンのOX10を継続開発したOX10Bを供給し、片山右京のチームメイトが表彰台に立つなど、輝かしい成績を収めたことです。
片山右京自身も活躍して、幾度かの入賞を記録しました。
1997年にはアロウズにエンジンを供給し、ハンガリーGPの際はデイモン・ヒルがトップを快走しましたが、ラスト1周で2位に終わり初優勝を収めることは出来ませんでした。