ビモータの始まりと黄金期
ビモータは、ヴァレリオ・ビアンキ、ジュゼッペ・モッリ、マッシモ・タンブリーニの三人の名前の頭文字をとってつけられた会社名です。
創立当初は空調設備を開発する会社として活動していましたが、メンバー一人のタンブリーニが趣味として熱心に行っていたモータースポーツの影響もあり、バイク製造へと切り替わっていきました。
きっかけは1972年にタンブリーニが乗っていたホンダのバイクがレースで大破してしまい、そのフレームを改めて作り、ビモータの一号となりました。
当時、高剛性、軽量、低重心に優れており、ホンダのエンジンにもマッチしていました。
そのためホンダのHとビモータのBが組み合わさりHB1と呼ばれ多くの人に支持されました。
70年台になるとヤマハやハーレーなどにもビモータ性のフレームが使用されるようになり、世界GPに参戦し、世界タイトルを取ることもあり注目されていました。
さらに1980年にジョン・エケロルドのライディングで世界GP350ccクラスを制したことで、ビモータにも大きな勲章として評価されました。
ビモータの変革と倒産
1983年になると経営を担当しているモッリとタンブリーニが経営をめぐり意見が食い違ったことでタンブリーニが会社を去ることになりました。
代わりにエンジニアとしてフェデリコ・マルティーニが起用されました。
若い才能によって、斬新なフルフェアリングモデルDB1、アルミニウムツインスパーのYB4の開発が行われました。
これらは高い独創性、性能、デザイン性が商業的に認められたことで多くの注目浴びて成功に結び付きました。
さらには1987年にヴィルジニオ・フェラーリがTT-F1世界選手権にYB4Rで挑戦をしました。
初参戦にも関わらず年間で3勝を挙げタイトルを取りました。
これによってビモータは高い技術があると認められました。
栄光を築き上げてきたマルティーニが会社を去り、サポート役をしていたピエルルイジ・マルコーニがニューモデルを作り新たな時代を作り出しました。
1990年に行われたコローニェ・ショーでは独創性が高いTESI 1Dは圧倒的な存在感を示し、ピエルルイジ・マルコーニの名前が世界中に知られるきっかけとなりました。
その後ビモータの人気車となるDBシリーズ、YBシリーズ、SB6シリーズを生み出しました。
そして90年代後半になるとビモータが完全自社設計で500Vデュエを発売し予約殺到の人気車となりました。
しかし完全な製品ではなく、シリンダー内直噴インジェクションで技術的に問題が発生し、すべての商品がリコールとなってしまいました。
大きな負債を抱えたビモータは残念ながら倒産という形になってしまいました。
ビモータの復活と今
2003年にイタリアの資産家でロベルト・コミーニが今までの本社と工場を買い取り改めて企業活動を始めました。
新しい経営陣と共にもう一度ビモータという名前を歴史に刻もうと経営をスタートさせました。
新生ビモータが発表したニューモデルのDBS MILLEがモーターサイクル・デザイン・アワードを獲得したことで、復活を遂げています。